首里城

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<首里城と首里>



首里は、趣のある古都である。首里は那覇市東北部の丘陵地にある町で、琉球王朝時代に城を中心として発達した。
15世紀初頭、首里を都として、尚巴志による最初の統一国家が誕生した。その尚一族の住居となったのが首里城である。

首里は中国貿易で王朝は発展するが、1600年頃、薩摩藩島津家が侵入し植民地となった。人頭税などの過酷な支配に人々は苦しめられるが、この異民族支配がかえって民族意識を高め、伝統芸術が完成する文化黄金時代を築いた。
明治時代には廃藩置県で沖縄県となり琉球王朝は崩壊するが、王朝時代の首里はこのように文化政治の中心であったと言っても過言ではない。首里城はじめ王朝時代の建物は、第2次世界大戦でことごとく廃墟と化したが、92年の首里城正殿の完成で、全ての復元工事が終了した。

首里城を基盤とし守礼門など数多い城門と共に、当時のユニークな建築を楽しませてくれる。2000年12月、首里城跡、玉陵、など「琉球王朝のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。首里は大人の雰囲気を醸し出した落ち着いた場所である。




<首里城公園>

琉球王朝時代、王国であった尚一族の住居・首里城を中心とする公園。首里城をはじめ守礼の門、歓会門など多くの琉球王朝時代の史跡が点在する。第2次世界大戦でほとんどの建築物が杯塵と化したが、次々と復元修理され、1992年には中心の首里城も完成した。また、首里城公園内の施設には古くは王朝時代からひき継がれた歴史的建造物や史跡をはじめ、沖縄の伝統工芸品のひとつである紅型工房、首里織の工房などが散在しており、さながら町全体が文化遺産そのものという風情をかもし出している。







<首里城>

首里城は、標高約120メートルの石灰岩丘陵に築かれた沖縄最大の城(グスク)である。城の規模は東西約350メートル、南北に約200メートルの楕円形。ここにいつ、誰が最初に城を築いたのか定かではないが、近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。13世紀〜14世紀といえば、各地に按司(アジ)と呼ばれる政治的支配者がいて、対立と興亡を繰り返していた時代。まだ統一政権は確立されていない。首里城も他の沖縄の多くの城同様に成立した数あるグスクの1つでしかなかったと思われる。

その首里城が王城となった背景には「察度説」と「尚巴志説」という2つの説がある。三山時代の中山王・察度が中山の居城として造営したという説と、察度・武寧の時代までは中山の拠点は浦添グスクにあり、第一尚氏の尚巴志が拠点を首里城に移したという説で、どちらが正しいかは未だ明らかではない。


【察度説】
察度説は、察度の晩年にあたる1392年頃に造営されたことになる。その年に遊観のための「高よそうり殿」という高楼を、首里城の下之御庭の南、真玉森の西側に創建したことが「琉球国由来記」「琉球国旧記」に明記されている。また、察度王説の主な理由として、久米三十六姓といわれる中国から来島した知識人たちが、那覇港と泊港の中間にある久米村に定住して、進貢貿易において重要な役割を果たしはじめたのが察度の時代からであること。

波の上に護国寺を開山させたり、首里の近くの末吉に万寿寺を建て、察度の寿像(生きている間に造る、その人の肖像)が後世まで祀られていたことなどが挙げられる。察度の世子・武寧が中山王の頃、冊封使を歓待するための天使館を那覇に建てたことも、当時の王城がすでに浦添グスクから首里城に移っていたことを推測させるものがある。


【尚巴志説】
15世紀初期に尚巴志の率いた第一尚氏が首里城を拠点にして統一王国の樹立を成し遂げたとする文献もいくつかある。尚巴志説では、英祖王時代に牧港から泊港へ貿易港が移っていたのが、首里に近い那覇港に取って代わるようになったのは、尚巴志が浦添から首里に居城を移したあととしている。尚巴志の時代に明国との交流が一層盛んになり、那覇港が海外貿易の基地として琉球の文化・経済の素晴らしい発展に貢献したことは確かである。また、尚巴志は石材で首里城を固めたり次々と新しい建物の建築計画を立てて、首都としてのめざましい整備事業に取り組んだ。


この2つの説から首里城は、察度が造営し、尚巴志がグスクの中のグスクの地位に押し上げて、琉球処分がおこる明治12年までの約500年間、王宮として歴史を創り上げたと考えてもいいかもしれない。また、なぜこの首里城が王城になったかについては、北側が末吉山から虎頭山、弁ヶ嶽にいたる丘陵、南側が金城川が流れる低地でその先に識名丘陵、東側は南風原町との境界を流れるナゲーラ川、西側は真嘉比川に囲まれ、他地域と隔絶された自然の要塞を成しており、王宮の立地としては十分である、地理的環境が大きいと思われる。そして、城下に那覇の街や貿易港として良港だった那覇港を控えていたことも、貿易立国・琉球にとって好条件だったといえる。







<首里城の変還>

首里城は、数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に問題となったのが木材の調達で、薩摩藩から再建のために木材提供をしてもらっていた。また、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。三度目の火災の後再建された1715年から1945年までの姿を基に、現在の首里城は建築された。

1879年の琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割をなくし、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。首里城は、王宮ではなくなった後、荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。正殿の取り壊しも検討され、既に門のいくつかは既に取り壊されていた。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により解体を免れ、昭和初期(1928年〜1933年)に正殿の改修工事が行われて正殿をはじめ城内のいくつかの施設は国宝に指定された。県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られるようになった。

1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから(太平洋戦争中の沖縄戦だったため)砲撃を受け、27日に首里城は完全に地上から姿を消したとされる。首里城の下に地下壕を掘り日本軍が総司令部を置いたこともあり、米軍の猛烈な攻撃にあい、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。

戦後、沖縄を直下統治したアメリカは、首里城跡に琉球大学を置き、人材育成の場所とした。多くの遺構が撤去あるいは埋められた。首里城の再建は戦後から多くの人々の悲願だったため、1958年に守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まり、1972年の日本復帰後は城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年に琉球大学が移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。

1989年、工芸家や職人を動員し、遺構の発掘調査や昭和初期の写真資料・正殿改修図面や古老の記憶などを元に、当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。1992年には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。

2000年には、首里城跡(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。




<守礼門>

首里の象徴ともいえる城外の町の飾り門。扁額【へんがく】に「守禮之邦(守礼之邦)」と掲げられていることから守礼門と呼ばれるようになったという。尚清王代の創建で、中国牌楼の影響を受けているが、入母屋造の屋根、赤瓦の本瓦葺きなど随所に琉球建築の工夫が加えられている。

1469年、農夫のクーデターによって政権交代がなされ第二尚氏王統が始まる。その4代目・尚清王【しょうせいおう】代(1527〜1555)に守礼門は創建されたと伝えられている。昭和8年に歓会門【かんかいもん】や瑞泉門【ずいせんもん】と共に国宝に指定されるが、沖縄戦で焼失した。現在の守礼門は沖縄がアメリカに統治されている時代にあたる昭和33年(1958)に復元されたものである。






<歓会門>

首里城の城郭内部に入る最初の門が勧会門。首里城の城郭内へ入る第一の正門で、俗に「あまへ御門(あまえうじょう)」といいます。「あまへ」は古い言葉で「よろこび」を意味しており、「歓会」はその漢訳になる。
堅固なアーチ型の石積み式で日本では極めて珍しい建築様式である。中国、朝鮮にはこの様式がよく見られるため、琉球王朝の文化の伝播を伺うことができる。
第3代の尚真(しょうしん)王時代(1477〜1526年)には琉球王国の中央集権化が進むが、勧会門も王都建設が進められたその頃の創建。戦前は国宝だったが沖縄戦で焼失。1974年(昭和49)に城郭観覧の入口として優美な姿が復元された。







<瑞泉門>

首里城第2の門で楼門形式の門。別名を「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。その名の通りめでたい泉といわれる湧水「龍樋」が門前にあるため瑞泉門の名がついた。創建は1470年頃といわれて、尚真(しょうしん)王の時代に歓会門や久慶門ができるまでは、この瑞泉門が首里城の正門だった。門の名称は、門前右下にある「龍樋(りゅうひ)」に由来する。構造としては、双壁の門の上に直接櫓をのせた櫓門。戦前、国宝となっていましたが戦災で消失し、現在の門は戦後の再建。今回正殿とともに復元された。龍樋は、王宮や冊封使の飲料水として利用された。瑞泉とはその水をたたえた言葉である。









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