沖縄戦

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<沖縄戦の歴史>


沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦。沖縄戦は民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の組織的戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了した。




<沖縄戦の概要>

アメリカ軍の沖縄上陸作戦計画図沖縄戦は第二次世界大戦における、日本国内での最大の地上戦である。また、民間人も戦争に参加したのもこの戦闘の特徴である。沖縄県援護課の資料によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者12万2228人のうち9万4000人が民間人とされている。負傷者数は不明である。その中で、沖縄住民の17〜45歳以上で結成された防衛隊の戦死者はおよそ、2万5千人。中学生以上の男子生徒でで結成された学徒隊の死者が890人、また女子生徒で結成された女子学徒隊の死者334人である。これに対して、アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人だった。




<那覇大空襲>

沖縄戦の始まりを1944年10月10日の那覇大空襲と考える場合もある。この日、沖縄は那覇を中心に約1400機の米軍機による爆撃を受けた。その被害は、死者600人、負傷者900人にのぼり、那覇市内の人家、そして貴重な王朝時代の建造物も焼失した。日本軍の軍令部は首里城の地下壕に、主力は浦添丘陵一帯と南部の島尻地域におかれた。




<沖縄戦の開始>

実質的な戦闘の始まりのは45年3月23日の空襲からである。アメリカ軍の上陸は、3月26日、日本軍の裏をかく形で行われた慶良間諸島への作戦からだった。艦隊の停泊地にしようとしたのである。当時、慶良間諸島には、海軍の特攻兵力が配置されていただけだったので、上陸は容易なものだった。日本軍は山間部に逃れて抵抗したが、数日後には慶良間諸島全滅全域がアメリカ軍に制圧された。




<アメリカ軍の上陸>

アメリカ軍の上陸は4月1日の午前8時30分より、中部西海岸に日本軍の裏をかく形で始まった。艦船約1500隻、兵員約54万人が投入された。この日、日本軍は、抵抗らしい抵抗も見せなかった。水際での作戦ではなく持久戦をする方針を決めていたからである。アメリカ軍は翌日に東海岸に達し、沖縄本島を分断する形で軍をしくことになる。




<北部での戦い>

日本軍が比較的少なかった沖縄島北部は、早い時期にアメリカ軍制圧された。アメリカ軍は4月13日には、最北の辺戸岬の到達し、4月20日、北部地方は実質的にアメリカ軍の制圧下に入った。北部に配置されていた日本の国頭支隊は、圧倒的な兵力のアメリカ軍に抵抗できずに、山の中を避難民や住民の食料を奪いながら、転々とした。彼らは、度々住民や避難民を拷問したり、虐殺したりした。特に大宜味村渡野喜屋、現在の白浜で起こった住民虐殺、今帰仁で起こった住民虐殺はよく知られている。北部戦線最大の戦闘は、東洋一と呼ばれていた飛行機のあった伊江島をめぐるものだった。およそ2700人の兵士が住民を巻き込みガマに立てこもり、6日間にわたる激しい抵抗を行った。戦死者は日米合わせて約4500人、そのうち1500人程が伊江島住民だった。




<中部での戦い>

上陸したアメリカ軍は、4月7日頃から苦戦に入る。なぜなら、南へ侵攻した部隊が牧港(西海岸)と和宇慶(東海岸)を結ぶ日本軍の陣地に差し掛かると、猛烈な反撃にあったからである。この攻防は、一進一退を繰り返し、40日余り続いた。日本軍は、この局面で2度総攻撃を行い主力部隊のほとんどを失う。アメリカ側の被害も甚大だった。5月12日〜18日にかけては、北部戦線より新たに投入されたアメリカ軍の第6海兵師団が、安謝川を渡河し、首里西方の安里付近の高地で、日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。この戦闘では2662人の戦死者と1299人の精神障害者を出すほどだった。そして、沖縄守備軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定した。




<南部での戦い>

中部戦線を捨てた日本軍は、南部の入り組んだ地点に点在するガマにこもって最後の抵抗を始めた。しかし、この局面の戦闘は、アメリカ軍による一方的な掃討作戦だった。最後の抵抗線は、玻名城(具志頭村)と国吉・真栄理(糸満市)を結ぶ断崖線だった。しかし、この局面で沖縄戦全般を通して最も悲惨な状況が生まれた。戦闘を避けてこの地に避難していた、10数万に人に及ぶ民間人を巻き込む形の戦闘になったからだ。そうした状況下で、日本軍は住民を守るどころか、食料を奪い、スパイ容疑で虐殺したり、集団自決に追い込んだりした。アメリカ軍は5月30日に首里を占領し、6月17日までにこの守備線を突破し、戦線は最終局面に至った。

6月18日、アメリカ軍司令官バックナー(Simon Bolivar Buckner, Jr.)中将は、最前線視察中に砲撃され死亡したが、アメリカ軍有利の状況には変化がなかった。むしろ、この後数日はバックナー司令官が殺害された地域を中心にアメリカ軍が徹底的な掃討作戦を行ったため、日本軍側の被害は一気に増大した。守備軍の司令官牛島中将は、6月19日に最後の軍令を出し6月22日に沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これにより日本軍の組織的な戦闘は終わった。しかし、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの(『・・・爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』)であったことに加え、指揮系統の崩壊によって自決の事実や大本営発表がはっきりと伝わらなかったため、実質的に戦闘は続き、アメリカ軍が作戦終了を宣言したのは7月2日だった。




<沖縄戦後>

戦後、沖縄はアメリカ軍の支配下に入り、日本に返還されるのは1972年5月15日のことだった。それに先立つ1965年4月9日に琉球立法院は6月23日を「慰霊の日」と定め(返還後の1974年10月には県議会で制定)、現在は毎年その日に摩文仁の平和祈念公園において追悼式典が行われる。




<日本軍と沖縄県民>

日本を、そして沖縄を守るために出兵された日本軍。日本を、そして沖縄を守ってくれると信じた沖縄県民。しかし、そこには悲惨な事実も隠されていた・・・

・「我々はお国のために闘っているのだ」という口実によって、日本兵自身が安全な壕内に避難するために、先に避難していた住民を追い出す者さえいた。
・投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口付近において盾にした挙げ句、馬乗り攻撃で多数の犠牲を出した。
・日本軍は沖縄住民のスパイ活動を警戒して方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民をスパイ容疑で処刑した。
・「轟の壕」では、「泣き声で敵に発見される」という理由で壕内で幼児を虐殺するなどをした。また、ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した。
・飢えた敗残兵が、米軍から住民に配給された食糧を狙って襲撃を行っていた。
・大宜味村渡野喜屋(現・白浜)では、山中に潜んでいた日本兵がアメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし、食糧を奪って海辺に連れ出し35人を虐殺した。
・久米島では米軍の大兵力による上陸こそ無かったものの、日本軍軍属の鹿山正久米島守備隊長(兵曹長)の疑心暗鬼によって、郵便局員とその家族など21名の住民がスパイ容疑等で虐殺される事件(鹿山事件)が起こっている。




<沖縄戦の自決>
沖縄戦では、住民の集団自決がたびたび起こった。最初は慶良間諸島だった。家族同士が殺しあう凄惨なものであった。集団自決はあくまで住民の自発的な行為であったとする意見と軍からの強制という意見がある。慶良間諸島の場合は、事前に手りゅう弾を渡されていた。また、阿嘉島では、手りゅう弾がなかったため、鎌で首を切ったり、首をつったりした。現在では研究者はこれら「集団自決」(集団死)の多くは日本軍による命令・強制であったと考えている。またこれを反映し1982年以降高校教科書では「日本軍にしいられた・追い込まれた」という表現がとられている。

当時、国民はアメリカ兵やイギリス兵につかまったら、女は辱めを受け、男は残忍な方法で殺されるといわれてきた。また、日本軍が根こそぎ動員で住民全てを軍の作業につかせ、兵士の数、配置、武器の状況、壕の状況など日本軍の状態が住民に知られていたので、軍は住民が捕虜になったら機密が漏らされるという考えもあり、強制したとの考えもある。また、ひめゆり学徒の証言の中には「兵士に手榴弾を渡されたが死にきれなかった」「青酸カリを飲むよう言われたが量が足りなかったため飲まずにすんだ」「攻撃に行って反撃を受けた兵士が民間人の避難していた場所に逃げ込んできたため猛攻を受けてほぼ全滅した」「『おまえたちが沖縄を守るのだ』と初年兵らを集めて囮に使い、兵隊たちはその隙に逃げた」というものもある(尚、ひめゆり学徒隊には軍命として解散命令が出ている)。




<馬乗り攻撃>

南部のガマに立てこもった人々に対してアメリカ軍は徹底的な掃討攻撃を行った。しかし、日本軍の抵抗も激しいものだった。弾薬や食糧庫が尽きても、夜になるとガマから出て、地雷や手りゅう弾で攻撃をした。アメリカ軍も司令官であるバックナー中将が戦死するなど痛手を打受けた。そこで、アメリカ軍がとった戦法が「馬乗り攻撃」だった。馬乗り攻撃は、洞窟の上の空気穴からガソリンを流し込み、黄リン弾で火をつけるというものである。ナパーム弾も使われていた。この攻撃は、各地のガマで行われ、多くの犠牲者を出した。




<ひめゆり学徒隊>

沖縄戦にかり出された女子学生は、主に看護婦の訓練を受けて、従軍看護婦として病院に配置された。女子学生は出身学校ごとに名前が付けられ、ひめゆり学徒隊・白梅学徒隊・なごらん学徒隊・でいご学徒隊などがあった。ほとんどが、悲惨な運命をたどるが、その中で、ひめゆり学徒隊が1番悲惨な運命をたどった。ひめゆり学徒隊は、5月25日の撤去命令を受け南風原陸軍病院から南部の激戦地となった喜屋武半島の現在の「ひめゆり塔」のある塹壕へと移っていった。しかし、この時点で、陸軍病院は医薬品も食料も尽きて病院としての機能を失っていた。

6月14日、病院の本部壕が直撃弾をうけて、多くの人々が亡くなった。17日には、第1外科壕も被弾し、第2外科壕は馬乗り攻撃によって多数の死傷者が出た。そして、18日に突然、学徒隊の解散が命じられることとなる。多くの生徒たちは、壕からの脱出に成功したが第3外科に壕いた生徒たちは脱出直前にガス弾が投下され、ほとんどが亡くなった。無事脱出した生徒たの中で、荒崎海岸まで逃げのびたグループは、手りゅう弾で自殺、実にひめゆり学徒戦没者194名のうち、128名は解散後になくなっている。








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