沖縄の歴史

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<沖縄の歴史>


沖縄は、元は琉球と呼ばれる国であった。ではなぜ、沖縄が琉球と呼ばれなくなったのか。それは、沖縄の独特の歴史に関係するものである。その沖縄の歴史をここでは原始・古代の頃から遡っていく。




【原始・古代】

沖縄の歴史は今からおよそ数万年前もの昔にまで遡る。沖縄の歴史は地質学でいう、更新世、考古学でいう旧石器時代に相当する歴史である。沖縄は日本のような縄文時代、弥生時代のような区分は行わない。沖縄にいつ頃から人類が現れたのかは明らかになっていないが、考古学・人類学の最新の研究によれば、沖縄の最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。

また、1967年に具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8千年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。これらの人類は当時の沖縄に広範囲に生息鹿を狩りその角や骨を加工して道具を作り、自然物に依存する採取経済の段階にあったとみられている。土器を作る術を持たなかったが、すでに火の利用は知っていた。現在のわれわれと同じホモ・サピエンスである。長い空白期ののちに、やがて貝塚時代と呼ばれる文化が登場する。

貝塚時代は、縄文時代にあたる前半と、弥生時代から平安時代にあたる後半に大きく分けられる。前半について「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、使用については意見が分かれる。その起源についてはまだよくわかっていないが、近年の爪形文土器の発見に示されるように、今からおよそ6000年以上前に遡る可能性が高い。

この文化は日本本土、特に九州地区の縄文文化の流入によって形成されたとみられている。貝塚時代は新石器文化の時代であり、紀元前10世紀前後まで続く採集経済の時代である。木の実や陸産のマイマイ類、それに海産物などを人々は主な食料としていた。土器を作り、磨製の石器を用い、貝類などに加工して利器となし、やがては網まで考案するようになる。この文化段階においては社会の仕組みもきわめて単純で、1つの集落の人口も少なかったとそうていされる。この時期の後期遺跡からは弥生土器の出土が報告されており、弥生文化の波が一定程度は沖縄にも及んだことを裏付けている。

しかし、弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕は現段階では行われていなかった。弥生文化の影響はあまり見られないが、その一方で弥生時代には、沖縄で作られた貝輪などの貝製品が日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。文献では中国の『隋書』(636年)に琉球と呼ばれる国が誕生するが、台湾を指すとする台湾説、沖縄を指すとする沖縄説の対立がある。『日本書紀』や『続日本記』には南島と称される化外の地が登場する。その中には、沖縄の島々と思しき名称もあり、大和国家のとの間に一定の関係をもったことがわかる。しかし、具体的状況は不明である。




【中世】

貝塚時代の後の時代をグスク時代と呼ぶ。琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る。詳しい年代はわかっていないが、紀元10〜12世紀に開始されたと推定されている。住居場所は丘陵上にあり、一種の高地性集落を形成したようである。この時期になると麦や稲を栽培する農耕が既に開始されており、鉄製利器の使用も始まっていた。高地性集落は、おそらくアサとよばれる首長を中心に村落共同体を構成し、その内部で一定の階級分化が進行したのではないかと推察される。高地性集落=村落共同体を「マキョ」の端緒形態だと考える意見もある。

この時代は日本や中国大陸との人の交流が盛んで、中国だけでなく東南アジア・の陶磁器が輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきた。農業社会に移行し始めた村落共同体は、祭祀を通じて精神的に結合していたが、生産力の上昇によってその内部に一定の階級分化の速度を速め、協同体首長(アサ)は着実に力を蓄えて行った。この首長がのちに按司またはチャラとよばれるようになり、時代変革のリーダーとなる。

13世紀になると沖縄本島を中心とする地域は、按司が互いに勢力を競い合う激動の時代となる。按司たちは石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。こうした競争の中から、やがて按司に中の按司ともいうべき世の主が登場する。14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統を滅ぼした察度が収める中部の中山、南部の南山(山南)、北部の北山(山北)である。この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。

いずれも中国の明帝国に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、三山の中で、南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、まず1406年に中山王武寧(ぶねい)を滅ぼして、尚巴志の父である尚思紹を中山王につかせて基盤を固め、その後、1416年に山北(北山)を滅ぼし、その領土であった奄美諸島南部(沖永良部島以南)を侵略して領土に組入れ、1429年頃には山南(南山)を滅ぼして三山時代に終止符を打ち琉球を統一した。第一尚氏王朝である。

この王朝時代から沖縄の対外交易は飛躍的に発展し、中国・朝鮮・日本は言うに及ばず、シャム・ジャワ・マラッカなどの東南アジア諸国とも通交した。また、三山時代からこの頃までの間に宮古・八重山といった先島諸島も沖縄本島の政権の影響下に置かれるようになった。だが、この王朝は強力な国家体系を築きえていない未完の国家でしかなかった。1469年、王朝の実力者の1人、金丸を中心とする勢力はこの王朝を打倒して新しい王朝を出現さた。金丸は即位後尚円王と名乗り、第2尚氏王統が始まる。

第2尚氏王朝の課題は、前王朝の弱点を克服し、王国を再編・強化することにあった。特に対外交易の利益を国王の手に独占することは重要な目標の1つだった。しかし、尚円王は在位7年で亡くなる。新王朝の3代目の王となったのは、真嘉戸樽(まかとたる)で尚真(在位1477〜1526)となった。尚真王の治世は琉球の黄金時代であった。尚真王は各地に依然として勢力を保っていた南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。また、宗教組織を編成し、王の権威を高めるために各種の土木事業を営んだ。




【近世】

ところが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をリーダーとして日本に強力な封建国家である幕藩制国家が登場すると、その余波はたちまち琉球にも及んできた。1609年(慶長14年)3月4日、薩摩の樺山久高ら島津軍3,000名余りの兵を進発させ琉球国家に侵入した。約200年間の平和で戦いから遠ざかっていた琉球は、大貿易時代の終結によって国力が低下していた上、15世紀に国王によって武器を没収されていた為に、薩摩藩(日本)の槍殺掠奪に為す術無く琉球は日本の封建国家の枠内に引き寄せられた。

ただ、琉球の国家体系は破壊せず、その独立性を一定の範囲内で保障し、中国との冊封関係を認めた。したがって琉球は対外的には独立を保ったまま、内実においては薩摩藩・幕府の強い規制を受けるという、いわゆる「日中両属」となった。征服直後に薩摩は琉球の検地をおこない、琉球の石高(生産額)を約9万石とし、そのおよそ3割を仕上世(上納)として薩摩へ差し出すよう義務付けた。そして、奄美諸島(度々独立戦を起し、琉球は持余していた)を割譲させ直轄地とし、割譲後も表面上琉球領の体裁を採らせるため、王府の役人の派遣を続けさせた。こうした事態は首里王府を中心とする琉球の支配族に新たな政治姿勢や思想を要求した。

17世紀中期から18世紀中期にかけて登場した向象賢(しょうじょうけん)や蔡温(さいおん)らは、薩摩支配という現状を承認し、その範囲内で琉球支配層の利益を追求した代表的な政治家である。蔡温が「わが琉球の政治は朽ちた手綱で馬を駆しらせるようなもの」と評したように、「日中両属」下の琉球王国の前途は多難をきわめた。低生産力の社会に重い貢租の負担がのしかかったため、民衆は急速に窮乏し、社会的矛盾が深く進行した。

しかし、日本文化の流入により文運は興隆した。「おもろさうし」の編集が完結し、また、多くの修史事業が営まれた。18世紀は学問や芸術の領域が活況を呈し、今日の沖縄文化の体系を整えた記念すべき時代であった。だが、琉球社会は時代とともにその矛盾を深くし、農村は荒廃を速めた。19世紀に入ると王府の財政は極度に悪化し、近海に異国船が出没した。内実は日本の体制に組み込まれながら、外見は独立国という形の琉球王国は、内外の諸問題を抱えたまま近代の荒波をかぶり始めたのである。




【近代】

明治維新によって日本は近代国家へ歩み始めたが、その波はすぐさま「病める琉球国家」に打ち寄せてきた。1872年頃琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置する手だてを練り始めるが、その前に2つの大きな問題が横たわっていた。1つは琉球に対して宗主権を主張し、明治国家の琉球併合に反対する清朝の圧力で、他の1つは琉球支配層の統合反対運動であった。

1879年春、沖縄県を設置し、王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。日本政府のもとで琉球は、中央集権的近代日本国家に組み入れられていき、琉球王国は完全に消滅した。琉球藩設置から、廃藩置県までの一連の流れを沖縄では琉球処分と呼んでいる。琉球処分によって琉球王国は最終的に解体し、沖縄は近代日本の1県として制度的に確定された。だが、琉球処分の行われた翌年に、宮古・八重山地方を中国に与えるかわりに、中国内における日本の特権を得ようとする分島問題が起こるなど、明治政府の沖縄政策はスタートから問題ばかりであった。一定の改革を含むとはいえ、明治政府の初期沖縄統治策は、旧来の諸制度を踏襲する旧慣存政策で、近代的諸政策の適用実施は大幅に遅れた。

1890年代から、沖縄県民の権利意識が高まり1893年(明治26年)には宮古島の農民が人頭税廃止などの要求を掲げて帝国議会への請願運動を起こし、1890年代末には青年知識人グループが制度的平等を求める戦いを展開した。こうした動きもあって明治政府はこの頃から制度的改革を本格的に推進したが、その作業の完了は大幅に遅れて、例えば、衆議院議員選挙法が完全に適用されたのは1920年(大正9年)になってからのことだった。

大正末期になると「ソテツ地獄」(ソテツを食べなければならないほど飢餓状態)と言われたほどの経済危機が沖縄社会を支配するようになった。大量の労働力が移民や出稼ぎとして県外に流出していった。やがて、軍国主義体制が強化され、沖縄は破壊の場、沖縄戦へと押し出されることになる。




【現代】

1945年(昭和20年)3月26日から開始された沖縄戦は、第2次世界大戦の中でも最も悲惨な戦闘となった。1945年(昭和20)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え進攻してきた。圧倒的なアメリカ軍の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。

実質的な沖縄戦は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。わずか3カ月足らずで20万人余の生命が戦火に奪われたが、その半数近くの約9万4000人は非戦闘員の一般市民であった。鉄条網で囲われたアメリカ軍の収容所(キャンプ)から出発した戦後沖縄の人々は、日本から分離されアメリカの直接統治化に置かれた境遇の中で自らの歴史を創造した。

1952年(昭和27)4月28日発効の日本国との平和条約で、沖縄は潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して沖縄を軍政下に置き、沖縄の各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。祖国復帰運動はいわばそのような方針に立つアメリカとの対決をはらんで展開された。1950年代の土地闘争を経て、1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、運動は急速に高揚した。

1960年代後半になると、祖国復帰運動は反戦平和・反基地・人権確保闘争として性格を強め、広範囲な階層を集結する一大勢力に成長した。この運動とこれを支持する日本本土の民主勢力の運動の前に、日米両政府も沖縄の返還を実現せざるを得なかった。1968年(昭和43)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。1972年(昭和47年)5月15日「沖縄県」は復活した。1975年にはこれを記念するために沖縄国際海洋博覧会が開催されたが、県民の意に反して基地沖縄を固定化する返還内容であったため、基本的な問題は温存された。

沖縄戦や戦後のアメリカ統治を経験したために、沖縄県の社会基盤は本土各地に比べ著しく遅れていた。政府は莫大な資金を投入して、「格差是正事業」を推し進めた。また、民間も開発事業を活発に展開した。その結果、復帰後の社会資本は格段の前進を見せ、特に観光リゾート産業の発展が顕著であった。しかし、その一方では、自然破壊・海の汚染などの環境問題が深刻になりつつある。

近年では、自然・歴史・文化の特性を生かして、我が国の「南の交流拠点」を形成しようとする事業が推進されている。また、独自の文化を継承・発展させようとする活動も活発である。







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