那覇 |
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<那覇>那覇は、人口31万人の大都市で沖縄の県庁所在地である。那覇は空港があり、沖縄に行く人たちのほとんどは、那覇を利用することとなる。那覇空港から一歩外に出た瞬間、「うわっ、沖縄だ〜!!」と感じる。沖縄は気温は高いが本土とは違いカラッとして過ごしやすい。そんな気候、そして山や高い建物が多くないため開放的な気分にさせてくれるからか、「沖縄にきたっ!!」って感じる。 那覇の中心部は大きなビルや銀行やホテル、デパート、レストランが立ち並び、メインストリートは東京・大阪・名古屋にも引けを取らない。だが沖縄は独自の空気が流れており、とても陽気な雰囲気が流れてくる。また、ビル街から、一歩外に踏み出せば、そこには典型的な沖縄の民家や道沿いには沖縄の代表的な花ハイビスカスが咲いている。また、視線を上に向ければ赤瓦屋根でシーサーが眼を光らせている。 また、那覇は福州園や旧海軍司令部壕・浦添城跡など歴史的な建造物・土地があり、加えて、那覇市立壷屋焼き物博物館など、沖縄独自の伝統文化をいまに受け継いでいる。そんな那覇をここでは、紹介していく。 <国際通り> 沖縄県庁近くのパレットもくじから安里の交差点までの1.6kmの道路をいう。那覇を代表する一大繁華街である。戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと、長さがほぼ1マイルであることから、「奇跡の1マイル」とも呼ばれる。沿道には銀行やホテル、デパート、雑貨や洋服店、飲食店、旅行社などのほか、通り全体の約4割をしめる土産品店が立ち並ぶ。片側一車線のこの道は、朝の7時30分〜9時、夕方17時30分〜19時30分、バスレーンと呼ばれる交通規制で一般車両は通行できない。 戦前はこの辺りは湿地帯で田畑や墓地があった。1953年から1954年にかけて改修工事が行われ、その後、多くの店が立ち並び、発展してきた。国際通りの名称は、当時は、映画や沖縄芝居が盛んで、その時代に流行していた映画館「国際劇場」が国際通りという名前の由来。戦後、米軍に市場を独占された住民が、この辺りに住みつき、市を立て、畑を道路に変えて、今日の国際通りの原型を作った。 国際通りは、繁華街である一方、祭り会場としても活用されている。 毎年8月に開催される「1万人のエイサー踊り隊」では、各地域の青年会や芸能団、子ども会などがエイサーを踊りながら、国際通りを練り歩きます。10月に行われる「那覇まつり」でも、伝統舞踊や獅子舞などのパレード、日本最大の「大綱引き」が国際通りで繰り広げられます。この祭事は、400年もの歴史を持つと言われている。 <波之上宮> 熊野3社権現を祀った琉球8社の1つ。創始年は不明。琉球王朝の時代から航海安全、豊漁、商売繁昌など、沖縄総鎮守の神様として名高い。近くに沖縄最古の寺である護国寺や那覇市内で唯一の波の上ビーチがある。 昭和20年戦火により焼失した社殿は同28年に再建。平成5年には平成の大造営として社殿が復興されて今日に至る。 お正月や七五三の頃、沖縄で一番人手の多い神社で、境内は普段の日でも普通の参拝の人や、ユタと呼ばれる拝みを仕事とする人などを見かける。 ![]() <福州園> 松山公園の向かいにある那覇市と中国福州市の友好を記念して建設された本格的な中国式庭園。那覇の友好都市・福州都市から専門家を呼んで造営した。8500uの園内に池や滝、中国式建造物が並ぶ。池や二つの塔、石門などが配され、石像彫刻も多い。 ![]() <宗元寺石門> 1527年に建てられた琉球王国の第一尚巴志王統の霊を祀る寺院だが、第2次世界大戦で壊滅して、アーチ型の正門と脇門など荘厳な石門のみ残る。国廟である。 <壷屋> 平和通りとひめゆり通りには挟まれた一角は、壷屋焼の窯元が集まる陶芸の町。1682年、琉球王の命令で本当各地の窯元をこの場所に集めて陶器産業の振興を図ったことから発達したのが始まりで、現在も20軒ほどの窯元がある。戦前は辺り一面がサトウキビ畑であったが街の真ん中となり、陶工達は中部の読谷村に移住した。現存する窯は荒焼用に使った南ヌ窯と上焼用に使う東ヌ窯ある。 15世紀中ごろ中国から瓦工が帰化して瓦の他に日常雑器を焼いたのが始まりとされている。16世紀にシャム(タイ)から泡盛のルーツとされるラオ・ロン酒が輸入され、その容器である南蛮瓶に影響されて粗焼きが始まる。沖縄の陶芸はシャム、中国、朝鮮、日本などの影響を受けて独自の発展を遂げた。 平和通りから入ってすぐ左手の那覇市立壺焼博物館では、壺屋焼を中心に沖縄の代表的な焼き物やその歴史、製法、民俗資料などが展示されている。壷屋焼は日用食器や守り神シーサーなど、実用的なものが多いのが特徴。 ![]() <豊見城城址公園> 那覇市に隣接する豊見城村にある広大な公園で、亜熱帯植物が茂り、与那国馬が放牧されている。14から15世紀に栄えていた南山大家の居城だった場所。現在は戦争で焼失してしまい昔の面影を残すものはない丘だけになってしまったが公園として整備され小さな動物園やSLが走っていたり夏にはビアガーデンも営業している。 ![]() <旧海軍司令部壕> 第2次世界大戦末期に4000人もの海軍兵が悲惨な最期を遂げた壕。この壕は、1944年12月海軍設営隊によって掘られたもので、ここに海軍の沖縄方面根拠地隊の司令部があった。カマボコ状に掘りぬいた横穴をコンクリートと坑木で固め、全長450メートルあったといわれている。この壕は米軍の艦砲射撃をもよく耐えて持久戦の体制を取ることができた。持久戦に備えて、この中に約4000人の兵士が収容されていたので、兵士らは立ったまま眠らなければならかった。壕内はいくつかの部屋に分かれており現在公開されているのは8部屋で、昇降廊は105段、30mの階段を降りると通路が続いている。 しかし、圧倒的な戦力を持つ米軍の進撃が続き、陸軍も南部へ撤退する中、ついに1945年6月13日、大田實司令官以下の将兵は自決を遂げる。司令室・作戦室に近いこの部屋は、幕僚が手榴弾で自決したときの破片の跡がそのまま残っている。 さらに、司令官室の壁には太田實海軍少将の愛唱歌が鮮やかに残されている。「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」と書いてある。戦後しばらく放置されていたが、数回にわたる遺骨収集の後、1970年司令官室を中心に275mが復元され、一般公開された。 海軍壕公園の中に慰霊塔が建っている。 <浦添城跡> 浦添市は琉球王朝発展の地で、市内に遺跡が点在する。14世紀頃の城跡。浦添グスク(城)は首里城以前の中山王城として知られている。浦添グスクは、高麗系瓦ぶきの正殿を中心に、堀や石積み城壁で囲まれた巨大なグスクで、周辺には王陵・寺院・大きな池・有力者の屋敷・集落などがあったと考えられている。沖縄戦最大の激戦地、嘉数高地と首里の司令部との間に位置する。ここにも日本軍の陣地がおかれ、高地全体が激戦となった。丘の東側にあるニードルロックをめぐって、一過間の攻防戦が展開された。今は公園となっている浦添城遺跡は、初代王・舜天が築いたが、17世紀の薩摩との戦いで焼失した。現在は城壁の跡のみ残り、浦添市街や宜野湾市街が一望できる静かな公園として整備されている。 <浦添ようどれ> 「ようどれ」とは死後の世界のことで、転じて墓を意味する。浦添城跡の北崖中腹に位置し、横穴掘り込み、前面石積みの陵墓で、向かって右が「てだこ」と伝えられる英祖王の墓、左が薩摩侵攻時に王だった尚寧王の墓である。「ようどれの碑文」には、浦添から首里に国王として迎えられた尚寧のことや、浦添間切(村)の人々に義務付けられた墓の管理のことなどが刻まれている。尚寧は墓のしゅん工1カ月後の9月に死去し、この墓に葬られた。浦添城の断崖にある自然にできた洞窟をさらに掘って作られており、県の文化財に指定されている。 |
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