空手 |
空手ページ |
<空手の歴史>沖縄で生まれた伝統的武術の「空手」。元来、空手は、力の弱い人や子供でも、力の強い人に対して身を守るための技であり、決して相手を倒すことが目的ではない。空手は、沖縄古来の武術「手(ティー)」と、中国(唐) 伝来の「拳法」が融合し、それが発展して「空手(唐手)」が生まれた。代々沖縄で受け継がれてきた空手は、19世紀半ば頃には、独特の思想と多種多様な技の体系が確立された。「古伝空手」と呼ばれるものには流派がなく、中国伝来の流派、「昭林流」と「昭霊流」の特性をそのまま大事に受け継いだ。 当時は「唐手(トウティー)」と呼ばれており、一子相伝門外不出の武術として、琉球王国の士族の間で伝承されていたが、尚真王(1477年〜1526年)の中央集権化による「禁武政策」や、薩摩の琉球侵攻(1609年)また、廃藩置県による琉球王国解体によって、日本全国にその姿が知られるようになった。さらに第二次世界大戦後の米軍統治により空手は、沖縄を発祥の地とし、日本やアメリカを経由して、国際的武術になっていった。今や150数カ国、約5,000万人の人たちが空手を学んでいるといわれ、空手は世界中の人たちに愛される武術となった。 また空手の独特の呼吸法と鍛錬は、精神を強くし、免疫力を高め、健全な肉体をつくるため、最近では ダイエットや健康維持を目的として空手を始める人もいる。沖縄の伝統的武術「空手」は世界で最も学ばれ、そして最も愛されている格闘技である。 <流派の源流> 現在、60以上の流派・会派がある空手だが、現在ある流派の発生は20世紀に入ってからだといわれている。それまでは、型の特色・伝承地名などにちなんで「首里手(後の少林寺流、小林流等)」首里手系の鍛錬型はナイファンチとセーサンである。糸州安垣・安里安垣の系統は鍛錬型としてナイファンチを得意とし、喜屋武朝徳の系統は鍛錬型としてセーサンを得意とする。約500年にも及ぶ琉球王朝時代、その象徴的存在である首里城を中心に発展した首里は政治・経済・文化の中心地でなった。十四世紀後半からますます盛んになった海外交流は文化的にも大きな影響を受けることになった。首里手系も系も早くから影響を受け、改良され、沖縄の風土にあった武術として大成された。これが、現在に至っている首里手である。 【那覇手(後の剛柔流等】 東恩納寛量(1853〜1915)から宮城長順(1888〜1953)許田重発(0887〜1968)等へ継承されたもので、鍛錬型はサンチンである。尚巴志は三山を統一したのち海外交流を促進するため、造船技術や航海術に優れた技術者、通訳官を必要とした。そのため、中国皇帝に嘆願し、三十六姓賜わったという。三十六姓が住んだ所が那覇の久米村であり、彼らの中には、武術に心得がある者も含まれていた。このようにして那覇にも独特の武術の系譜が生まれた。 【泊手(後の松林流等)】 泊手系の鍛錬型はナイファンチである。松茂良興作の流れを組み、泊地方で伝承されたため、泊手と呼ばれる。首里王府の貿易港として栄えた泊港は、海外からの玄関口として、諸外国との交流がさかんになった。泊の聖現寺の境内は、上陸した外国人の活動の拠点となり、又、寺の周辺は漂着した交易船の乗客印の宿舎となっていたため泊の人達は、彼らと交流を持ちながら、その中の武人等から武術の伝授をうけ、首里、那覇とは変わった独特の泊手が誕生した。 このように流派は分けられていた。また、これとは別に中国南派少林拳を源流とする「劉衛流」と「パンガイヌーン流(後の上地流)」上地流は上地寛文(1877〜1948)が1900年中国福建省に渡り、十三年間修行ののち、もたらした純粋の中国拳法。基本型の「三戦」と「十三」「三十六」の三つの型は寛文直寛文直伝の技であり、上地流の根幹をなしている。たたいて鍛える極めて実践的特質を持っている。 上地完文が1926年に和和山で道場を開設1932年にパンガイヌーン流空手術研究所として本格的な指導を開始した。1940年上地流と改名した。実践的武術として国外にも多くの支部を有している。その他にも流派・会派はあるが、その多くは首里手系(泊手系を含む)、那覇手系、上地流系に分類することができるが、中には一子相伝というきわめて秘密裡に継承されてきたものもあるといわれている。首里手系、那覇手系、上地流系の中に盛り込めなかったものが諸流会派の型の一部である。 <沖縄空手の流派についての歴史年表> ・1372年 首里城下に中国人の朱・程・王・葉・懐の各氏が移住し、首里手系の源となったと推測される。 ・1392年 鄭氏、鄭義才一族による中国拳法の沖縄伝来といわれ、「武備誌」伝承される。那覇手系の源流を生み出すもととなったと思われる。 ・1456年 朝鮮より漂流民あり。口伝によると、漂流民より武術を伝授されたとある。 ・1869年 拳法八句の語句よりヒントを得て、空手と命名する。 ・1877年 上地流の源流は、中国福州市の南派少林拳である。 ・1880年 6月15日、沖縄県師範学校が創立される。 ・1925年 この頃、「唐手術」や「手」の呼称から首里手・那覇手・泊手と呼称されるようになった。 ・1929年 「那覇手」から剛柔流に呼称された。 ・1933年 「首里手」から小林流に呼称された。 ・1940年 「半硬軟流」から上地流に呼称された。 そして、現在に至る。 <沖縄の伝統古武道> 沖縄の伝統古武道は、空手と共に古くから沖縄に伝わる伝統武術である。沖縄での古武道の発生は、11世紀〜12世紀頃のいわゆる「南山」「中山」「北山」の三山分立時代の沖縄戦国時代からと言われている。その後察度王の1372年に、中国へ初めての朝貢が行なわれた。以来約500年にわたって続けられた中国との進貢貿易の中で、日本の刀などの武器を輸出する傍ら、さまざまな武器や武術が沖縄にもたらされるようになった。 以後、沖縄の自然環境や歴史的な背景に影響されつつ、もとからあった古武器にこれらの武器が融合し独特な沖縄の「古武術」へと発展していくことになる。古武術にとっての大きな転機が訪れるのは、尚真王(1477年〜1526年)時代での刀狩の実施と、薩摩の琉球侵攻(1609年)後にとられた禁武政策である。これにより、武器の携帯が禁じられた武術家たちは、身近にある生活用具や農・魚具などに工夫を重ね、武器として転用させながら沖縄独自の古武術へと昇華させた。 多くの武器の中で最も代表的であり重要視されているものは棍棒で、武具の技術を学ぶには通常、長い武器は棒から入り、短い武器はサイから入るものだといわれている。古くから「棍を以て祖と為しサイを以て師と為す」という言葉通りである。沖縄伝統古武道で使用する武器は、殆ど農民が使用していた農具より開発研究されたもので、最も代表的なものに棒・二丁鎌・ヌンチャク・ティンベ−・サイなどがある。新しいものでは、鉄甲、鉄柱などの武器も使われるようになった。 【棍棒】 棒術は剣術と違って、そのどの部分も刀と化し得る千変万化の武器である。つまり、剣には変化自在の組太刀があるが、刃を敵にあてなければ斬れないと言う制限をもっている。しかし、棒には刃も柄もなく「薙ぎ」「突き」「打つ」の万能性を、その六尺のすべてに秘めている。その歴史は、北方より来たものと南方より来たものが以前から沖縄にあったものと一緒になり、研究されてきて現在の棒術に至っているとも言われている。現在残っている型として「津堅棒」「周氏の棍」「佐久川の棍」などがある。 【サイ】 「サイ術」のサイは、インド、中国を経て沖縄に入り発達をとげたものであり、昔は仏具のひとつとしてかぞえられ、その形状から「人体を具現している」と言われている。「サイ術」には、「打つ」「受ける」「突く」「打ち落とす」「引っ掛ける」「貫く」があり護身のための武術であるとされている。世界の武術のように相手を刺殺して自己を護るのではなく、相手に危害を与えず静めるのを第一義的に考えて創られた。 現在沖縄に残っている型としては「津堅志多伯のサイ術」「多和田のサイ術」「浜比嘉のサイ術」などがある。 【ヌンチャク】 ヌンチャク術は、元々は暴漢や多人数の暴力に対してその相手の攻撃力を弱め、相手を静めるために使われた。故に、型においても受けから始まっていることが大きな特徴としてあげられる。沖縄の昔のヌンチャクは、長さ七寸五分(約22.5p)から十寸(約30p)位までであったと言われている。現在残されている型としては「前里のヌンチャク術」「東氏の二丁ヌンチャク術」などがある。 【トンファー】 トンファーについては諸説紛々として定かではないが、木製の棒に把手がついていて「坊」と呼ばれている中国の武器の一種が、沖縄に伝来したのが原型と言われている。沖縄では、唐ウシの柄を考案してトゥンファーとして使ったようである。元来、日本本土の古武術にはない沖縄独特の武具であり、二本一組で使用するが操作が難しく熟練度を要求される武器である。現在残されている型としては「屋良小のトゥンファー術」「浜比嘉のトゥンファー術」などがある。 |
沖縄の散歩〜TOP〜 歴史 戦争 アメリカ軍基地 伝統芸能 料理 長寿 シーサー 空手 沖縄市 首里 那覇 本島南部 プロフィール |
<リンク集> 沖縄1 沖縄2 沖縄3 沖縄4 海 旅行 生活 ペット お気に入り1 お気に入り2 お気に入り3 お気に入り4 お気に入り5 お気に入り6 |
Copyright (C) 沖縄の散歩 All Right Reserved |