本島南部 |
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<本島南部>沖縄というものを知ろうと思った時、この本島南部を無視することができない。なぜなら沖縄の歴史で最も被害を受け悲惨な経緯を持つ地域だからである。本島南部は沖縄戦の激戦地となり、20万人以上の犠牲者がでた。その中には、兵士だけでなく、民間人も多数含まれており、悲惨な運命をたどる者もいた。「鉄の暴風」ともいわれるアメリカ軍の総攻撃は、自然の形をも変えるほどで、逃げ場を失い身を投げるなどして自決した人も少なくなかったという。現在では、平和の願いを込めて沖縄戦跡公園や犠牲者の冥福のため平和の礎やひめゆりの塔などが建てられている。 その地を知ろうと思えば歴史から。そして、その地の歴史を知ることでますますその地が好きになる。本島南部は正に沖縄の歴史そのもの。もっと沖縄を好きになろう。 <沖縄戦跡国定公園> 沖縄戦跡国定公園の広さは81.3平方km(陸域31.27平方km、海域50.03平方km)。沖縄県の沖縄本島南端部、糸満市と八重瀬町にまたがる、第2次世界大戦(沖縄戦)の戦跡と自然景観を有する国定公園である。戦跡としては唯一の国定公園。1965年(昭和40年)、琉球政府立公園に指定され、1972年(昭和47年)の本土復帰に伴い、国定公園に指定された。公園内の戦跡は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。 “沖縄戦終焉の地”糸満に整備された広い敷地には、沖縄戦の記録写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、国立沖縄戦没者墓苑をはじめ各県の慰霊塔などがあり、人類の恒久平和を祈願している。沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」としている。例年この日には、摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる。 ![]() <平和祈念公園> 国定公園内の東部、糸満市摩文仁(まぶに)地区に所在。摩文仁の丘を含む芝生を敷き詰めた緑あふれる美しい公園。32.9haの園内には平和の礎、沖縄平和祈念堂、沖縄平和祈念資料館、がある。毎年6月23日には、県主催で慰霊祭が開催される。 ![]() <平和の礎> 平和の礎は、沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑である。1995年(平成7年)6月に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立された。海岸線を見渡す平和の広場に建てられた、屏風型の花崗岩に銘が刻まれる。現在も追加刻銘を受け付けており、刻銘者数は平成18年6月23日時点で24万383人。刻銘対象者は国籍問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々とする。基本理念は戦没者の追悼と平和祈念、沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、 御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。 ![]() <沖縄平和祈念堂> 戦争は2度と繰り返したくないという県民の願いと、人種・宗教・思想・国家を超越して世界平和の拠点にしようと建てられたもの。昭和53年に完成。恒久平和を祈念して平和祈念公園内に建造された高さ45m、七角形の堂塔である。 祈念堂の中には、沖縄出身の故・山田真山の作品で沖縄伝統の堆錦技法が施された高さ12メートルの漆製の平和祈念像を中心に北海道出身の画家、故・西村計雄氏の連作「戦争と平和」20点が壁に並んでいる。 <沖縄平和祈念資料館> 1975年(昭和50年)に開館した平和祈念資料館は、「第二次世界大戦で貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表すとともに、悲惨な戦争の教訓を後世に伝え、世界の恒久平和の実現に寄与するため」に平和祈念公園内に設置された資料館である。沖縄戦での住民の悲惨な体験を展示することで、沖縄戦の実態を知ってもらおうという資料館。館内は、「沖縄戦への道」、「鉄の暴風」、「地獄の戦場」、「証言」、「太平洋の要石」の5つの展示室に分かれている。特に県民の証言集は衝撃的で、訪れた者の胸を打つ。また、未来を展望するゾーンとして「子ども・プロセス展示室」がある。 ![]() <ひめゆりの塔> ひめゆりの塔は、糸満市米須霊域の北、糸満市米須に建つ。沖縄県師範学校女子部と沖縄県第1高等女学校の生徒、教員219人を合祀する慰霊塔。両校の生徒たちによって編成された従軍看護隊「ひめゆり学徒隊」は最後まで軍とともに行動するが追い詰められ、砲弾で倒れたり、捕虜になるのを恐れて自決したり、また、ガス弾に悲劇的な最期を遂げる。ひめゆり塔は両校の戦死者の冥福を祈るために建てられた。平成元年に遺品を展示する「ひめゆり平和祈念資料館」が設立された。 <ひめゆり学徒隊> 沖縄戦にかり出された女子学生は、主に看護婦の訓練を受けて、従軍看護婦として病院に配置された。女子学生は出身学校ごとに名前が付けられ、ひめゆり学徒隊・白梅学徒隊・なごらん学徒隊・でいご学徒隊などがあった。その中で、1番悲惨な運命をたどったのが、ひめゆり学徒隊である。ひめゆり学徒隊は、5月25日の撤去命令を受け南風原陸軍病院から喜屋武半島の現在の「ひめゆり塔」のある塹壕へと移っていった。ここは激戦区となった地である。 6月14日、病院の本部壕が直撃弾をうけて、多くの人々が亡くなった。17日には、第1外科壕も被弾し、第2外科壕は馬乗り攻撃によって多数の死傷者が出た。そして、18日に突然、学徒隊の解散が命じられることとなる。多くの生徒たちは、壕からの脱出に成功したが第3外科に壕いた生徒たちは脱出直前にガス弾が投下され、ほとんどが亡くなった。無事脱出した生徒たの中で、荒崎海岸まで逃げのびたグループは、手りゅう弾で自殺、実にひめゆり学徒戦没者194名のうち、128名は解散後になくなっている。 <健児の塔> 摩文仁の丘にある健児の塔は沖縄師範学校の生徒たちの慰霊塔。県民の大多数が動員された沖縄戦では、わずか14歳の学生ですら、女子生徒は学徒看護隊として、男子生徒は鉄血勤皇隊として戦場に駆り出された。学徒隊というと、ひめゆり学徒隊があまりに有名だが、男子学徒隊は勤皇隊として危険な任務を負わされていた。 鉄血勤皇隊は、1945年3月31日に編成されたが法律(義勇兵役法)は6月23日にしか発布されていない。 そのため、親の承諾印をもらうため実家に帰したという。戦争に出るのを反対し引き留める親もいたが皇民化・教育(師範学校は教師を養成する学校のため特に徹底された)を徹底されていたため、ほとんどの生徒が、学校に 戻ってきたという。14歳から17歳までの生徒たちは、下級生は通信隊や陣地の構築、上級生は戦闘要員として非常に危険な任務を負わされた。動員された385人中214人もの若い命が奪われた。また、ひめゆり部隊と同じように、壕で自決に追い込まれた生徒も沢山いたようである。 ![]() <玉城城跡(たまぐすくじょうせき)> 玉城城跡は標高180mの岩丘の上にある四方を岸壁に囲まれた城跡で、琉球創世の神アマミキヨが築いたといわれ、築城の年代など詳しくは分かっていないが、沖縄最古の歴史を持つ城跡。国家安泰・五穀豊穣を祈願する3郭からなる階段状の城だったが、2・3の郭の跡は戦後アメリカ軍基地の建設用石材として持ち出され、1の郭のみ残っている。1の郭は一見アーチ型の石門に見えますが、天然の岸壁をくり抜いて作ってあり、現存している城跡では珍しい門です。また、南部のこの辺りには、約4キロのグスクロードと呼ばれる道があり、その道沿いには、ミントングスク、糸数城跡などもある。 |
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