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<沖縄とアメリカ軍基地>沖縄には、日本全国に存在するアメリカ軍基地の75%がある。復帰後、次第に整理・統合が進められてきたが、90年代初めまで返還された面積は、基地全体の15%にすぎなかった。(本土のアメリカ軍基地の返還率は60%)沖縄の面積は日本の0.6%程、人口は1%程だが、その狭い地域に、日本に存在するアメリカ軍基地の75%が集中している。また、県土の10.88%を占めており、沖縄島でみるかぎりでは20%にもおよんでいる。 この数値は全国平均の0.26%に比してみても、もはや異常さを通り越して極限の状態にあるといえる。さらには、アメリカ軍の専用施設のある市町村は25市町村にもおよび、「基地のなかに沖縄がある」という形容も決して誇張した表現でないことが理解できる。 専用施設のある25市町村のなかでも、嘉手納・金武町・北谷町・宜野座はその占める割合が突出して大きく、それら4自治体は沖縄のかかえるアメリカ軍基地問題の象徴ともいえる。 また、人や産業が集まる県の中・南部に集中しているので、沖縄の発展の大きな妨げになっている。また、基地によって起こる騒音問題や環境破壊、アメリカ軍兵が起こす問題なども大きな問題として未だに沖縄の人々を苦しめている。また、日本本土のアメリカ軍基地は横須賀を母港とする第7艦隊と、三沢、岩国を母港とする航空部隊以外は、実戦部隊ではなく、通常はデスクワークを行う司令部スタッフである。ところが、沖縄に駐留する部隊は海兵隊・陸軍の特殊部隊(グリーンベレー)・空軍など、ほとんどが実戦部隊である。 【沖縄の主なアメリカ軍施設】 <那覇軍港> ベトナム戦争中は、原子力潜水艦も頻繁に出入りした軍港。ベトナム戦以後は、湾岸戦争の際、中東軍統治指令本部下の「事前集積船」グループの支援基地となった。県内転移が合意されている。第2次世界大戦後、壊滅した那覇港は米軍に接収され、那覇、泊両港は米軍により大幅な改修工事が施され、那覇港は20,000トン級、泊港は3,000トン級船舶が係留可能となった。 昭和29年、那覇港の北岸が当時の琉球政府に、泊港が那覇市に返還され、それぞれ管理運営されるようになった。一方、戦後の沖縄経済の復興にともない、港湾取扱貨物量が年々増大し、安謝地先に新港の開発計画が進められ、昭和44年に着工された同新港は、昭和46年には、水深7.5m岸壁3バース、水深6.0m岸壁1バースが完成し、施設の供用が開始されている。 昭和47年の日本復帰を契機に、那覇港北岸、泊港、新港を一体的に那覇市が管理することにより、3港を一元化し那覇港は重要港湾の指定を受けた。当初の那覇港港湾計画は、昭和49年に制定され、本土及び近隣アジア諸国をはじめ、主要離島を結ぶ流通拠点の整備を図るため、新たに浦添埠頭を組み入れ、防波堤、臨港交通施設、小型船だまり場等の整備、埠頭用地、港湾関連用地、緑地等の確保を含めた基本方針を定め、昭和56年における港湾取扱貨物量を740万トン(内貿680万トン、外資60万トン)として計画している。 その後、船舶の大型化や多様化に対応した岸壁の整備、再開発による埠頭能力の向上あるいは、海洋性リゾート等の時代の変化にともなう要請に対応するため、計画の改訂を行ない、平成12年の港湾取扱貨物量を1240万トン(内貿1080万トン、外貿160万トン)として、新港埠頭地区の拡充、浦添埠頭地区の北側への展開が位置付けられた。 さらに平成15年には、沖縄振興計画に基づき、那覇港国際流通港湾化を目指し、新たな港湾計画が改定された。 那覇港の整備は、この改訂された港湾計画に基づき、新港埠頭地区の水深13mコンテナ船専用岸壁2バースを築造し、構造改革特別区域法を活用した、民間企業によるターミナル運営が開始された。現在、交通体系の充実を目指し、高規格道路である臨港道路那覇空港線や、臨港道路浦添線の整備促進を図っている。さらに、港湾機能の再編を目指し、浦添埠頭水深9m岸壁など整備促進を図っているところである。 沖縄県浦添市への移設が決まっている米軍那覇港湾施設(那覇軍港)について、国と沖縄県、那覇・浦添両市などが話し合う「那覇港湾施設移設に関する協議会」が防衛施設庁で開かれ、移設後の港湾施設の面積をこれまでの案より拡大し、約49ヘクタールとすることで地元側と同意した。米側が要望した集積場の追加整備のため約14ヘクタール増やした。施設庁は、移設実現に向けて米側や地元側と調整を進める。那覇軍港は1995年の日米合同委員会で、現軍港の約57ヘクタールから約35ヘクタールに縮小し、浦添市に移設することに合意した。 <牧港補給基地> 浦添市西部から浦添市北部にかけて長さ約3km、国道58号から西海岸にかけて幅約1kmを占めている。戦後から沖縄の本土復帰前(沖縄返還前)にかけて、軍需物資の貯蔵や補給、修理などのための巨大な倉庫群・兵舎が建設され、米陸軍の極東随一の総合補給基地となった。 現在は那覇軍港に陸揚げされる海兵隊の物資の整備・点検に当たっている。また、牧港補給地区が占める土地のうち、およそ9/10は私有地であるため、年間43億円を超える賃借料が地主に支払われている。 <普天間海兵隊航空基地> 戦前はのどかな農業地帯だったが、1945年4月、米軍による沖縄占領と同時に、米陸軍工兵隊が、沖縄の本土決戦に備えて、滑走路を建設したのが始まりである。宜野湾市全体が1951ha。普天間飛行場が480ha。その他の米軍関連施設は157ha。計算すると、宜野湾市に占める米軍基地の割合は、33%になる。 宜野湾市の真ん中に位置している海兵隊第1海兵航空団36海兵航空のホームベースである。ヘリコプターを中心に100機以上の航空機が臨戦体制で配備されている。この基地は宜野湾の市街地の真ん中にあるため、宜野湾の人々は、基地を発着する航空機の騒音や有害科学物資(PCBなど)による土壌汚染(基地が返還された後に発覚する)また、新たな基地建設による環境と人々の暮らしの破壊などに悩まされている。航空機・通信施設・整備使節・倉庫など、さまざまな設備が整っていて、航空基地として総合的に整備された、在日米軍基地の中でも大規模な基地といえる。 <嘉手納基地> 嘉手納基地は戦前はのどかな農業地帯だったが、1945年4月、米軍による沖縄占領と同時に、米陸軍工兵隊が沖縄の本土決戦に備えて、滑走路を建設したのが始まりである。第2次世界大戦時、嘉手納町は沖縄本島最初の米軍の上陸地点となり、もちろん戦争の拠点ともなり、砲撃による被害は相当なものだった。終戦後1948年までは嘉手納基地への部分通行が可能だったが、その後は米軍の一方的な飛行場管理により全面的に立ち入りが禁止された。このために北谷村々域は完全に2分されてしまった。沖縄市、北谷町、嘉手納町にまたがる空軍基地。「不沈空母」の異名が付いている。 嘉手納町全体が15.04q2。嘉手納飛行場や嘉手納弾薬庫地区などを含めた嘉手納基地(飛行場)は19.95km2。約75%の割合です。F15やF16といった戦闘機やE3空中警戒機など、あらゆる機種の航空機が訓練と作戦に当たっている。まさに、東南アジアのアメリカ軍の要である。常時200機近い軍用機が配置され、上空や周辺の訓練空域で演習がおこなわれるが、そのため基地周辺の住民は、騒音に悩まされている。また、基地周辺にはアメリカ兵相手の街並みが広がり、基地内にも、将校宿舎、一般兵舎、映画館、ゴルフ場などがあり、約2万人のアメリカ軍人、軍属とその家族が住んでいる。 <嘉手納弾薬庫> 1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は、4月下旬までには本島の中・北部全域をほぼ制圧した。この基地は、それ以来、弾薬庫として使用されている。最初は、募手納弾薬庫、比謝川サイト、波平弾薬庫がつくられ、その後、読谷合同廃弾処理場、陸軍サービス弾薬庫、知花弾薬庫、嘉手納ボルタック弾薬庫、東恩納弾薬庫が建設・拡張された。 1972年の復帰の際、これらの施設が統合され、嘉手納弾薬庫地区として、日本政府からアメリカに提供された。その後、何度か一部返還された。1977年11月には沖縄市部分の3万2000uが返還され、自衛隊に引き継がれた。面積2786万9000u。弾薬庫が散在するエリア。空軍・海兵隊・海軍が使用するミサイル、弾薬などの貯蔵庫群である。民間人はおろかアメリカ兵の立ち入りも厳しく制限されている。沖縄のアメリカ軍だけでなく、西太平洋全域で活動するアメリカ軍の弾薬がここで補給される。 ![]() <読谷補助飛行場> 読谷村のほぼ中央に位置する読谷補助飛行場は、面積190万メートル。アメリカ軍のパラシュート隊降下訓練場として使用されてきた。ジープやトレーラーなど、以前はありとあらゆる物資の降下訓練が行われてきたが、現在は兵士の降下訓練のみとなった。老朽化し固定翼機の利用はなかった。かつてはパラシュート降下訓練に伴う事故が相次いで起こったが、平成8年12月のSACO最終報告により、パラシュート降下訓練が伊江島補助飛行場に移転され、また、楚辺通信所が移設された後に返還することが示された。 その後、パラシュート降下訓練が伊江島補助飛行場に移転、実施されることとなったため、平成8年7月19日以降、同訓練は行われていない。日米地位協定第2条4項(a)による共同使用により、野球場等の運動公園や村役場庁舎等が建設されており、また、施設内の大半は黙認耕作地となっている。 <伊江島補助飛行場> 第2次世界大戦末期、旧日本軍が飛行場用地として強制接収。昭和20年、米軍も上陸と同時に強制接収。また、昭和30年には真謝、西崎一帯も強制接収。島の中央部は補助飛行場、西側は射爆場、東側は航空管制用通信施設敷地として使用。土地改良事業、公共施設整備事業等が行われ、農地、公共施設用地等として利用されている。また、海兵隊が主に垂直離着陸機ハリアーの着陸訓練に使用している。伊江島補助飛行場が占める土地のうち、およそ3/4は私有地である。このため、年間13億円を超える金額が賃借料として地主に支払われている。1976年の日米安保協会で、移設を条件に全面返還が決まったが、地元地主会がこれに反対。現在も使用が続いている。 <ホワイトビーチ> ホワイトビーチは米軍と海上自衛隊が共同で使用する港湾施設の名称である。勝連半島の先端にある軍港で自衛隊も共同使用している。いまだに頻繁な原子力潜水艦の寄港である。原子力潜水艦に限っては沖縄でも大きな那覇軍港ではなくホワイトビーチへ寄港する。もちろん県や海上保安庁は原子力潜水艦の寄港のたびに放射能漏れを監視する体制ができがっている。また、保養施設や宿泊施設も充実している。港の設置条件には水深が大きな要素で、ホワイトビーチは中城湾に面していて、十分な水深がある。沖縄戦のさなか、中城湾に集結したアメリカ軍艦艇はこのホワイトビーチから補給物資を陸揚げしていた。以後そのまま米軍専用の軍港として機能してきた。 ![]() <キャンプ・ハンセン> 金武町から名護市まで広大な地域を占める演習場海兵隊の訓練がここで行われている。県道104号を越えて砲弾の発射訓練が行われていたことでも知られている。沖縄本島のほぼ中央部に位置し、約5,000人が駐屯している。10km以下の近距離から155mm砲が撃ち込まれるため、演習場の恩納連山はハゲ山となっており、山林火災も多い。この演習で、砲弾破片の住宅地への散乱、学校授業の中断、水源の汚染なども起きている。また、その際は県道104号線の約4km弱が封鎖される。76年、演習を阻止しようとした平和団体のメンバーが破片と爆風で負傷している。 <キャンプ・シュワープ> キャンプ・ハンセンと同じ海兵隊の演習場。名護市、宜野座村にまたがる広大な地域を占める。ここでは実弾訓練のほかに、水陸両軍による上陸訓練も行われている。また、普天間飛行場返還に伴う代替施設として、日本とアメリカ両政府は、キャンプ・シュワープ沖に海上ヘリポートを作ることに合意したが、地元住民の反対が出ている。 <北部訓練所> 国頭村、東村にまたがる沖縄最大の訓練所である。ここではジャングルを想定した訓練が行われている。総面積約78.33Km2という広大な区域を持ち、沖縄県における最大の軍事演習場である。本区域の上空2000フィートまでは米軍による使用が認められている。北部訓練場の占める土地には、わずかながら私有地も含まれている。このため、年間4億円を超える損失保証金が地主に支払われている。この地域は、ヤンバルクイナやリュウキュウヤマガメなどの天然記念物に指定されている貴重な動植物が生息する地域である。 |
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